2009年7月31日金曜日

教会でのメタモルフェーゼ

 メタモルフェーゼとは変態、また変身という意味の言葉です。たとえば毛虫が蝶になる、ヤゴがトンボになる、蟻地獄が薄羽蜻蛉(ウスバカゲロウ)になるなどです。醜い姿から美しい姿に変わることです。これは昆虫の世界だけのことではなく、人間も似た側面があります。ただし人間の場合は、外面よりも内面のメタモルフェーゼを求める存在だと思います。
7月に大雪山系で遭難した中高年の方々も残雪の中で自分自身が変貌する体験を求めていたのだと思います。皆既日食を見るために南の海に赴いた人々も、神秘の世界の中で自分も変貌する願望を持って出かけたのではないかと想像しています。
私は青年時代に、遭難者を探して山岳警察と共に富士山に登ったことがあります。道なき道を辿り、岩山を登り、雪渓をトラバースする中で、神をふと近くに感じたことがありました。それは自分の内面にとっても貴重な体験でした。私たちは日常から離れた所、人の気配が希薄になる空間で、神を感じるようです。
 教会は町のただ中にありますが、しばし日常から離れ、神と出会う空間として備えられています。神のことばである聖書を通して、神は現代においても切々と私たちに対してと語りかけています。この空間の中で、しばし心と耳を傾けたとき、「私はいる」とささやく神を感じ、私たちもメタモルフェーゼされるのです。
 メタモルフェーゼは聖書にも出てくる言葉です。「メタ」とは「変わる」ことを「モルフェー」とは「形/姿」を意味します。つまり、古い人から新しい人に変わるという意味で用いられます。私たちはみな、生まれながらにして罪と死の支配の中にある古い人です。そのままでは滅びていくのです。しかし神との出会いの中で永遠の生命を持つ新しい人にメタモルフェーゼされていくです。

「私たちはみな、・・・鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主(キリスト)と同じかたちに姿を変えられて行きます。・・・」Ⅱコリント3: 18

2009年7月7日火曜日

「伊香保風・・」

 万葉集の東歌で、最も多いのが上野国(群馬)の26首、その中で9首は伊香保の地名を含む歌だということです。伊香保とは現在の榛名山一帯を指しており、山と温泉と染料に用いる榛(ハンノキ)で有名で古来より開けた地域でした。伊香保を詠む歌のほとんどは恋の歌で、古代人の大らかさを感じさせます。その1つに次の歌がありました。 
「伊香保風(いかほかぜ) 吹く日 吹かぬ日 ありといへど 吾(あ)が 恋のみし 時無(ときな)かりけり」(現代語訳・・・伊香保から吹いてくる風さえ吹いて来る日もあれば、吹かぬ日もあります。でも私があなたを想う気持ちは四六時中、絶えることはありません)
 聖書には「雅歌」がありますが、ここでも恋の歌「相聞歌」があります。古今東西、変わらない風景です。しかし聖書ではいつの場合でも神が背景にあり、変わらない神の愛を土台として、男女の恋も愛も変わらないということです。
 私たちの人間の気持ちは「時無かりけり」というわけにはいかず、伊香保の風のように「吹く日」も「吹かぬ日」と変転し、最後には全く吹かなくなる場合もあります。それは若い男女だけではなく、往年の夫婦の場合でも同じです。私たちが少しでも長く誠実な愛を持続させるためには、私たちをいつも愛してくださる神の愛を知ることが大切です。
 「永遠の愛をもって、わたしはあなたを愛した。・・・わたしはあなたに、誠実を尽くし続けた。」エレミヤ31:3