2009年10月8日木曜日

09/10月号 鳥の道 神の道

 先日の夕方のことです。散歩の途中で空を見上げていました。夕陽が赤くなっていましたが、その方向に烏の群れが飛んでいきます。はじめ6,7羽の群れを見つけました。その後に2羽、3羽と追いかけるものがあります。さらに後からまた6,7羽、4羽5羽と烏が同じ方向に向かいます。途中、高圧電線にとまって仲間を待つものもあります。みな、決まったようにして西に飛んでいきます。荒川辺りにねぐらがあるのでしょうが、この高圧電線上空に烏の道があると考えました。
 それから2,3日たった夕方、教会の屋上で空をながめていると、今度は雀が三〇羽ほど、群れになって西に飛んでゆきます。その後に幾羽か遅れて従い、少し待つと再び2,30羽が西に飛んでいきます。雀にも空の道があると知りました。世の中には、人間が考える道とは異なる道があるのです。 
 神の道もまた人の目には見えない道です。ここ二,三年の間に、教会員が何人かが亡くなりましたが、この人たちは皆、1つの道を辿っていたことに気がつきました。ある青年は10年あまり、ALSの闘病生活をした後でした。その闘病生活の中でキリストを告白していました。ある男性は定年退職した後に癌を患い、数年間の闘病生活の後に亡くなりました。この方も若い時にキリストに出会っていました。ある婦人は30年前に教会ができた頃に、キリストに出会いました。礼拝に熱心に集っていましたが、七〇才を超えて体調を崩し、突然の脳内出血によって亡くなりました。それぞれ別々の人生ですが、私はそこにも、人の目に隠れた道を見いだすことができます。それはキリストを通して天に到る道です。
 「私が道であり・・・」とはイエスの言葉です。彼は地上に下ってきた神の子であり、彼を信じる者たちを天に到らせるために、道を備えにやってきたのです。21世紀の時代にも、イエスは生きていて御言葉を通して私たちを「道」に招いています。私自身も若いときに、イエスによって「道」に導かれましたが、彼を通して天国に到ると固く信じています。

わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。」ヨハネ福音書14:6

2009年9月5日土曜日

09/08号 「夕陽に染まる海」から


 この夏も、帰省して故郷の海を見ました。私の故郷は秋田の港町で、かつては北前船で栄えていました。現在は、木材、飼料、様々な国のコンテナを運ぶ船、またフェリーが発着する港になっています。港内は昔に比べて拡張され、津波を避けるために防波堤は数キロ先の海上にまで伸びています。海の彼方には男鹿半島の山々が青くそびえています。
この海の夕焼けは絶景です。この度も、夕陽を眺めていました。夕陽はオレンジ色に染まる時もあり、紅に染まる時もあります。太陽が水平線に近づくに従い、山々も、町も、空も雲も、海も、すべてが染まってゆきます。特に海を眺めていると幾万、幾億の波もそれぞれが夕陽に染まってそれぞれがキラキラと輝き生きているようです。
 この光景を眺めていたとき、ふと「真理はあるのだ」という思いが脳裏に浮かびました。なぜだか分かりませんが、「真理」の言葉が浮かんだのです。「真理」などと論じることから、遠く隔たった時代の風潮ですが、すべて万物を紅に染め、やがて去っていく夕焼けは、「真理」という言葉に相応しい感動を与えます。
私が故郷を離れたのは二十歳前の時でした。「真理」を探求するというとてつもない野望を心に秘めてのことでした。しかし間もなく挫折しました。社会に失望し、自分に失望し、人間そのものに失望しました。人間は所詮、限りある存在で、「真理」には及ばないのです。
 ちょうどその頃、大学で「科学と聖書」という講演を聴きました。「人間は有限であり、聖書の神は永遠/無限の神である。人間の能力では神に到達できない。」という内容でした。これは私の野望を完全に打ち砕きました。その夜は悶々とした時を過ごしました。ふと手元にある聖書を手にしたときに、イエスの言葉を目にしました。彼の言葉は、力があり、包容力があり、愛に満ちていました。私は彼の内に「真理」また「永遠」ということを覚えて、信じました。信じたときに、確かにすべてを紅に染める「真理」に相応しい感動と深い「平安」を覚えました。イエスもまた、万物を愛に染めて生涯を全うされた方でした。
 「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」ヨハネ福音書3:16

2009年7月31日金曜日

教会でのメタモルフェーゼ

 メタモルフェーゼとは変態、また変身という意味の言葉です。たとえば毛虫が蝶になる、ヤゴがトンボになる、蟻地獄が薄羽蜻蛉(ウスバカゲロウ)になるなどです。醜い姿から美しい姿に変わることです。これは昆虫の世界だけのことではなく、人間も似た側面があります。ただし人間の場合は、外面よりも内面のメタモルフェーゼを求める存在だと思います。
7月に大雪山系で遭難した中高年の方々も残雪の中で自分自身が変貌する体験を求めていたのだと思います。皆既日食を見るために南の海に赴いた人々も、神秘の世界の中で自分も変貌する願望を持って出かけたのではないかと想像しています。
私は青年時代に、遭難者を探して山岳警察と共に富士山に登ったことがあります。道なき道を辿り、岩山を登り、雪渓をトラバースする中で、神をふと近くに感じたことがありました。それは自分の内面にとっても貴重な体験でした。私たちは日常から離れた所、人の気配が希薄になる空間で、神を感じるようです。
 教会は町のただ中にありますが、しばし日常から離れ、神と出会う空間として備えられています。神のことばである聖書を通して、神は現代においても切々と私たちに対してと語りかけています。この空間の中で、しばし心と耳を傾けたとき、「私はいる」とささやく神を感じ、私たちもメタモルフェーゼされるのです。
 メタモルフェーゼは聖書にも出てくる言葉です。「メタ」とは「変わる」ことを「モルフェー」とは「形/姿」を意味します。つまり、古い人から新しい人に変わるという意味で用いられます。私たちはみな、生まれながらにして罪と死の支配の中にある古い人です。そのままでは滅びていくのです。しかし神との出会いの中で永遠の生命を持つ新しい人にメタモルフェーゼされていくです。

「私たちはみな、・・・鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主(キリスト)と同じかたちに姿を変えられて行きます。・・・」Ⅱコリント3: 18

2009年7月7日火曜日

「伊香保風・・」

 万葉集の東歌で、最も多いのが上野国(群馬)の26首、その中で9首は伊香保の地名を含む歌だということです。伊香保とは現在の榛名山一帯を指しており、山と温泉と染料に用いる榛(ハンノキ)で有名で古来より開けた地域でした。伊香保を詠む歌のほとんどは恋の歌で、古代人の大らかさを感じさせます。その1つに次の歌がありました。 
「伊香保風(いかほかぜ) 吹く日 吹かぬ日 ありといへど 吾(あ)が 恋のみし 時無(ときな)かりけり」(現代語訳・・・伊香保から吹いてくる風さえ吹いて来る日もあれば、吹かぬ日もあります。でも私があなたを想う気持ちは四六時中、絶えることはありません)
 聖書には「雅歌」がありますが、ここでも恋の歌「相聞歌」があります。古今東西、変わらない風景です。しかし聖書ではいつの場合でも神が背景にあり、変わらない神の愛を土台として、男女の恋も愛も変わらないということです。
 私たちの人間の気持ちは「時無かりけり」というわけにはいかず、伊香保の風のように「吹く日」も「吹かぬ日」と変転し、最後には全く吹かなくなる場合もあります。それは若い男女だけではなく、往年の夫婦の場合でも同じです。私たちが少しでも長く誠実な愛を持続させるためには、私たちをいつも愛してくださる神の愛を知ることが大切です。
 「永遠の愛をもって、わたしはあなたを愛した。・・・わたしはあなたに、誠実を尽くし続けた。」エレミヤ31:3

2009年2月27日金曜日

冬日健康

正月頃の日差しは、実に柔らかく、そこに優しさと生命ある恵みを感じさせます。冬のただ中だからこそ、感じる太陽の恵みです。そこで次のような高浜虚子の俳句を思い浮かべました。「やはらかき 餅の如くに 冬日かな」、「我が庭や 冬日健康 冬木健康」、「薮の中 冬日見えたり 見えなんだり」。
「冬日(ふゆび)」は冬の太陽(光)のことですが、虚子にとって、親しく頼りがいのある友人、欠くべからざる家族のようです。あるいは猫がジャラケル毛糸玉のようです。戦時に、次のような俳句も詠んでいます。「凍てきびし されども空に 冬日厳 」。厳しい季節、時局の中にも、恵みが絶えない冬日はしっかりとそこにあるのだから、希望を失ってはならない、という意味です。確かに、寒いときにも、厳しい時代にも、太陽光は、燦々(さんさん)と、私たちの上に降り注ぎ、恵みと希望を感じさせます。
すでに二〇〇九年となって新年が明けましたが、世の中は、昨年からの金融危機で不景気になっていく様相を帯びています。人の心も寒々し出しました。将来に不安を抱く方も多いでしょう。しかし、このような時代だからこそ、私たちも、「冬日」のありがたさを覚え、さらには「冬日」を凌駕する恵みの存在を発見する必要があるかと思います。
私たちキリスト信者にとっては、イエスがそのような存在です。彼は「冬日」以上に、私たちの親しき友人であり、家族であり、喜びを与える光です。確かに、目に見えないのですが、聖書を通して、いつも私たちに語りかけてくれます。イエスの言葉は、冬日のように身体を暖めるだけではなく、心の深くにまで届いて、心の真髄を慰め、生命を与えます。この年も、イエスは聖書の言葉を通して、私たちに対して、次のように語りかけてくれます。「わたしは決してあなたを離れず、また、あなたを捨てない」(ヘブル13:6)。
この約束が、町の人々すべてに及ぶようにお祈りいたします。

ものにもつかず・・

「原中や/ものにもつかず/啼雲雀(なくひばり)」。これは芭蕉44歳時の句です。意味は、中空高く舞い上ってさえずるひばり、ただ青い春の空だけがどこまでも続く。何ものにも束縛されないひばりの自由な姿と孤独さを描いています。数年前の冬に散策していた時、ふと、北本市石戸宿で芭蕉の句碑を見つけました。そこにこの句が刻まれていたのです。句碑によると1851年に川越と石戸の愛好家たちが建立したものだそうです。それにしても、この地域にマッチした俳句だと思い、好きになりました。昔は広い原野があったのだと思います。そこで雲雀が、どもまでも高く高く飛んでさえずり、ついには姿が見えなくなってもさえずりだけが響き渡る情景を想像することができます。まことにのどかです。しかし、私が強く引かれる点は、のどかさではなく、芭蕉の内面の自由と厳しさです。世の束縛から自由となってこそ、人の心に響く俳句が成立するのだ、という意味を含んでいるようです。
 私は、牧師として、桶川に赴任してから、すでに14年が過ぎています。私の仕事は、福音(聖書)の説教ですが、これもまた「ものにもつかず」という姿勢によって、成り立つ働きです。私の場合には、「もの」とは何かを考えたとき、色々思い当たります。それら「もの」「者」「物」に執着していたならば、どう頑張っても語ることばは、人の心には響かないのです。
主イエスもまた、自分や世に対する執着から離れることが大切であることを教えておられる箇所があります。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。」(マタイ16:24)。私たちには、大変厳しいことばとして響きます。しかし「ものにもつかず」「自分を捨て」という姿勢は、厳しいようでいて、実は私たちを困難から救う姿勢です。その姿勢を持つときに、私たちは、かえって束縛から解放されて自由を得、私たちが直面する困難を乗り越えることが出来るのです。

価値観のパンデミック

先日NHK_ETV特集で、辺見庸氏の話が放送されていました。辺見氏は芥川賞を受賞、極限の「生」における「食」を扱った「もの食う人びと」で講談社ノンフィクション賞を受賞している作家です。現在64才で、脳出血の後遺症と大腸癌と闘いながら、なお活動を続けています。
番組の内容は次のようなものでした。「今、私たちが直面している危機あるいは破局とは何か。金融危機、インフルエンザ、環境問題、自殺者の増大、等々だが、単層ではないらしい。根底にあるのは、人間の価値観におけるパンデミック(感染爆発)ではないか。こんなに価値観が危うくなっている時代はかつてないと思われる。生きて行く意味という面で喪失感が爆発的に広がっている。・・・秋葉原無差別殺傷事件などは、その現れ。」と。
この番組を見ながら、私は身の毛がよだつ思いをしました。他方、それは聖書が示す人間の実相と改めて思いました。ノアの箱舟の時代、バベルの塔の時代、バビロン捕囚の時代、イエスの時代と、聖書は、色々な時代に危機と破局があったことを記録しています。その破局とは、辺見氏の表現を借りると「価値観のパンデミック」です。聖書は、様々なパンデミックを記述しながら、その背後にある人間の原罪を顕わにしようとしています。それは内面の深くに存在する害毒なので、なかなか人は気づかないし、認めることを拒むからです。しかし、人が自らの原罪に気づくときに、破局からの救済も近いのです。
私たちは、キリスト教会は、現代という時代に建てられた「ノアの箱舟」と信じています。箱舟といっても目に見える建造物というのではなく、目に見えないシェルターです。キリストが霊のシェルターとなっているということです。私たちは、ひとりでも多くの人が現代のパンデミックと自らの内にある原罪に気づいて、彼の元に避難するようにと願っています。
 

「私たちのために」誕生された方

世界で初めのクリスマスはベツレヘムの家畜小屋で行われました。布にくるまわれ飼い葉桶で幼子イエスが、スヤスヤと寝ており、その寝顔を父ヨセフと母マリヤ、それから後から来た羊飼いたちが見守っていたのです。あたりは殺風景でしたが、そこに漂う雰囲気は天国のように明るいものでした。それは空に輝く明星のためではなく、ただそこにいた人々の信仰の所以でした。その信仰とは、ただ幼子イエスが「自分たちのために誕生した」ことを、そのまま受け止めたと言うことでした。
「きようダビデの町で、あなたがたのために、救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです」ルカ2:11
彼らの信仰を生んだ要因は、天使たちがまばゆいほどの輝き、預言があったとも言えます。しかし何よりも、彼らが貧しいがゆえに、かえって、世の欲、常識にとらわれなかったことです。世の欲や富みに執着する者には、天の光も御告げも耳にも心にも届かないというのが、聖書が示す真実だからです。
現代においても、神は聖書のことばを通して、私たちに「キリストの誕生」を伝えているのです。もちろん、私たちの小屋や納屋でのことではなく、それは私たち一人一人の心の中で起こる出来事としてです。私たちの心も殺風景なのですが、福音に記されている天使の御告げが「私たちのため」であるとして受け止めるときに、キリストは、私たちの心に住まわれるのです。そして、私たちの殺風景な心は豊かになり、私たちの生活にも明るい光が灯されるのです。
私がキリストを信じたのは、青年の頃でしたが、その時、世の中と自分という存在に絶望していました。藁にもすがる思いで聖書を手に取ったときに、そこにキリストの言葉が記されていました。私は、最後の救いの手段として彼とそのことばを信じたのです。その時に、殺風景な心に灯火がともり、平安と希望の光が満ちたという経験をしました。その光は、今なお、私の心にとどまり続けています。天使はキリストの誕生について「あなたがたのために」と語りましたが、確かに、キリストは「私たちのために・・・お生まれになった」のです。

 私たちの中のブラックホール

“ブラックホール”という言葉は、現代版の地獄といった響きを持つようです。先月、インドで16歳の少女が、素粒子加速装置(LHC)を使った「ビッグバン」実験によって、地球が終わりを迎えるとの報道にショックを受けて自殺したそうです。円周27キロのトンネル内で光速に加速した陽子同士を衝突させ、宇宙が誕生した「ビッグバン」直後の状態を再現されたとき、小さなブラックホールが作り出され、地球を飲み込んでしまうとの小さな懸念があるそうですが、少女は、その不安と恐怖に耐えかねたのです。私たちは、そういうことはまずないだろうと高をくくりますが、別のブラックホールが世界に出現しているようです。それは虚無という“心のブラックホール”です。これもまた、大きな恐怖であり、すでに世界を飲み込みつつあります。
虚無というのは、「神はいない」「真理はない」という人間の心のつぶやきが生み出します。「神はいない」とつぶやくとき、一切の真実も、絶対的価値も、人間の尊厳も、生きる意味も、心の中から失われていきます。そして暗黒の怪物のように人々の中にうごめき、凶悪な姿を現します。この怪物は、ある時には、「人を人とも思わない」連続殺人鬼を造り出し、あるときには、「神はいないし、見てはいない」ということで、偽装者たちを出現させます。私たちの国もまた、食物から建築物、経済から政治に至るまですべて偽装に満ちています。確かに、現代は、虚無という心のブラックホールに飲み込まれつつある時代のように思われます。
ミヒャエル・エンデの『はてしない物語(ネバーエンディング ストーリー)』にも、虚無に飲み込まれつつある世界が出てきます。すべてが虚無によって荒廃し、色を失っていく世界です。「葉が色という色を失いぼんやりとくすんだものになっていた」世界です。エンデは、この物語を通して、現代社会が抱えている危機を訴えていたのです。そして、この虚無によって支配されていた世界を救ったのは、真実の愛なのだそうですが、私たちの時代の心のブラックホールも、神の存在と絶対的愛を発見した人によって、克服されていくと信じるのです。
聖書の言葉に「神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちに、いのちを得させてくださいました。ここに、神の愛が私たちに示されたのです。」1ヨハネ4:9とありますが、あなたも、この神とその愛を見いだしたとき、心のブラックホールは消え去ることと信じます。どうぞ聖書の中に捜し求めてください。

愚かな金持ちの話

現代は、お金で何でも買えるように錯覚している時代ですが、聖書には魂だけはお金では買えないということを明示しています。そこでまず、ルカの福音書12章にある「愚かな金持ちの話」を紹介しましょう。

「ある金持ちの畑が豊作であった。そこで彼は、心の中でこう言いながら考えた。『どうしよう。作物をたくわえておく場所がない。』そして言った。『こうしよう。あの倉を取りこわして、もっと大きいのを建て、穀物や財産はみなそこにしまっておこう。そして、自分のたましいにこう言おう。「たましいよ。これから先何年分もいっぱい物がためられた。さあ、安心して、食べて、飲んで、楽しめ。」』・・・しかし神は彼に言われた。『愚か者。おまえのたましいは、今夜おまえから取り去られる。そうしたら、おまえが用意した物は、いったいだれのものになるのか。』自分のためにたくわえても、神の前に富まない者はこのとおりです。」

この例え話では、金持ちの考えと神のご計画とは、全く異なっており、最後にどんでん返しがあるところがミソです。金持ちが豊作だからと言って、自分の魂に「さあ、安心して、食べて・・・楽しめ」と語っていますが、財産は彼の魂の保証とはなりません。神のみが魂の命運を決定づけ、神の宣告で金持ちの魂は、滅び淵に落ちていきます。きっと皆さんには、金持ちの考えが滑稽のように感じますが、実は私たちの姿そのままです。お金が少しでもあると安心し、自分の生命は安全と錯覚するのです。しかし、魂の命を保証するのは財産ではありません。
世の中では米国発金融恐慌が起こっており、財産はバブルであり、幻想であることが明らかにされています。いくらバブルを集めても、それは魂を救えないのです。魂の救いは、ただ神の領域に属することなのです。大分前のことですが、他の町にいたときに、資産家の老婦人が教会に尋ねてきたことがありました。自分のクリスチャン叔母が高齢でなくなったのですが、その死に方が美しく、「自分もそのような最後を迎えることができたら」という願いを持っていました。自分の死ということを考えたときに、財産も、何もかも、自分を救うことをできないことをこのご婦人は、気づいていたのです。

聖書に「神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである。」ヨハネ3:16 )とあります。人の魂は、ただ神の救いの手段である「ひとり子」を通してでなければ、救済されないのです。財産の化けの皮がはがされている今この時、これを悟るべきです。

「炎のランナー」から・・・リデル宣教師

 すでに、北京オリンピックは終わりましたが、オリンピックを描いた「炎のランナー」という映画をご存じでしょうか。1981年アカデミー賞受賞作品です。走ることによって栄光を勝ち取り真のイギリス人になろうとするユダヤ人のエイブラハムスと、神のために走るスコットランド人宣教師リデル、実在の二人のランナーを描いた映画です。クライマックスは1924年のパリ・オリンピック、エイブラハムズは、ユダヤ人に対する偏見とアマチュアリズムの壁に立ち向かいながら100mのゴールド・メダリストに。リデルは、「神を喜ぶために走ると」宣言し、オリンピックに出場しますが、100mの競技がキリスト教の安息日である日曜日にため自分の信仰を貫いて棄権、代わりに譲り受けて出走した400mでゴールド・メダリストになるのです。
実在のエイブラハムズは、その後、弁護士、キャスター、スポーツ組織指導者という立場でイギリスのアマチュアスポーツ界に貢献し1978年に亡くなりました。リデルは、宣教師として中国に渡り、日本軍の捕虜収容所に抑留されたまま1945年に亡くなりました。
実は、このリデルを知る宣教師が仙台におり、私の友人がその宣教師からリデルの話を聞いたことがあります。私自身も、テープで証を聞きました。その宣教師は、リデルが映画で脚光を浴びたことを何よりも感謝ながら、リデルの想い出を話してくれました。リデルは中国でも宣教活動の傍ら、しばしば英国人学校で陸上競技を指導したそうです。さらに収容所では、冬の寒いときに、年若い囚人のために自分の靴を与えるという犠牲的な精神を示したそうです。より速く走るためには、それなりの信念と目的が必要となりますが、神のために走るという人の生涯は、また神のために貫かれたものであったと覚え、感激しました。
それにしても、リデルの死は、日本軍の捕虜収容所という点は複雑な思いで、日本人として申し訳がないという気持ちになります。現代日本は、かつてのようではありませんが、なお、靖国神社に参拝する政治家がいたり、なお閉鎖的な国民性を思うときに、一抹の不安も感じるのです。 

「彼は死にましたが、その信仰によって、今もなお語っています。」ヘブル11:4

「ひきこもりの国」から

M・ジューレンジガー著「ひきこもりの国」という本があります。著者は長く日本滞在した米国ジャーナリストです。現在、日本には、約100万人の引きこもりの若者が存在しますが、この「引きこもり」という現象が、現代日本を読み解く鍵であると言います。「ひきこもり」の原因の1つは、若者たちが自由に目覚めながら、自分を確立することができていないということ、また1つは、社会が個人の自由に対して否定的であると言うことです。この典型的出来事は、雅子皇太子妃の「ひきこもり」です。彼女は海外経験を積んだ優秀な女性ですが、皇室に入って間もなく「ひきこもり」の事態に陥っています。皇室は、最も日本的な環境であると言えます。
欧米などでは、キリスト教の伝統があり、人々は絶対的神の前にある自己を覚えながら成長します。そこから、個人の自由/自立と尊厳という価値感が育てられます。また隣国の韓国でも、戦前戦後にキリスト教が浸透して、それによって個人の自由/自立と尊厳が育ち、自発的な市民運動が起こり、それが大きな変革と発展の力となっていると言います。ところが日本では、欧米の技術を輸入しながら、人間形成の根本となる精神については受け入れず、また自らの中からも生み出す力がない状態なのです。
私はこの本を読んでみて、実に、日本の現状について的を射ていると思いました。現代の日本社会は八方塞がりで、そこから抜け出そうと、色々と模索もしています。しかし、一向に打開できていません。やはり解決の糸口は、根元的なところにあるようです。
日本に聖書信仰がもたらされてから、約150年になります。この間、キリスト教信仰は、地道に浸透しました。根のところでは神の前における自由自立の精神が育っていると思われます。しかし、この国の閉塞した精神性から脱却するためには、なお多くのキリスト者が起こされることが必要かと思われます。聖書のみが、絶対的創造者である神と、私たちを無限の愛をもって愛する神の子キリストを啓示するのです。この神のもとで、人は真の自由/自立の心が養われるのです。
今から約100年前にシベリヤ鉄道を通って来日したイギリスの宣教師が、日本の景色のあまりの美しさに感動しながら、「美しい日本。ただキリストだけがあなたを救うことができる。」と詩に書いていますが、私は、現代の状況を見て、この言葉をあらためて思い起こすのです。

黙想の中のイエス

 私は、青年時代にキリスト教に改心してから、ほぼ毎朝、祈りの時を持っています。祈りの時の内容は、聖書の言葉を読んで、黙想し、神を想い、そして自分のためと人々のために祈るというものです。そこに神の子イエスの臨在を感じて、心が満たされ、暖かくなります。それでもう三〇年以上続けており、私にとっては、今なお、楽しい「ひととき」です。
現代の世相を思うときに、多くの人々の心は殺伐としているのだな、と感じます。硫化水素による自殺事件、茨城と秋葉原での無差別殺人事件などです。これらは氷山の一角で背後には、多くの予備軍があると推測できます。また現代人の心の殺伐さを垣間見ることができるような気がします。人が孤独を覚え、絶望感に浸っているとき、そばで支えてくれる存在がなく、むしろ、いよいよ見放され、蹴落とされ、無視されていく状態を感じてしまう無情な社会のようです。その危機感と不安感を、皆が覚えて生きているのです。この世相を覚えるとき、私は、いつも黙想の中で知るイエスを、ひとりでも多くの人々に知ってもらいたいと願います。
「心の貧しい者は幸いです」とは、イエス・キリストの言葉です。私が黙想するときに、いつも、このイエスの言葉響いています。本来ならば「心が貧しい」と言うことは、辛いことで、絶望している状態のことです。ところが、イエスは、その者こそ「幸い」と語りかけ、その魂を優しく、無条件に受け止めてくださいます。私自身は、「心の貧しい者」で、何の取り柄もなく、愚かで、小さく、弱い存在です。しかし、このような者をも、心の中のイエスは、いつでも受け止めてくだり、絶望と不安から救済してくださいます。

さあ、光の中に・・・!

杞憂という言葉があります。それは次のような、中国の逸話に基づくものだそうです。
・・・昔、杞の国のある男が、天が崩れ落ちてくるのではないかと心配し、食事ものどを通らず、夜も眠れずにいた。それを心配した友人が、『天は気が固まってできているので、絶対に崩れることはない。』といって安心させようとした。しかし男は、『それなら月や星が落ちてきたらどうなるのだろうか』とまた心配するため、再び友人は『月や星も気が固まっているだけなので、落ちてきても怪我一つしない』と説明し、ようやく杞の国の男を安心させた。 ・・・・・
このことを知って可笑しさを覚える方も多いかと思いますが、現代人は、常に杞憂の中に過ごしているのではないかと思います。大地震、大津波の心配、温暖化と環境問題の心配、戦争の心配、人口問題、食糧危機、エネルギー危機、金融危機の心配、等々です。さらには、通り魔殺人、強盗、様々な事故、癌などの病気の心配、老後の心配、等々と、実際には差し迫った危機がないのに、必要以上に不安と恐れの中で生活しているのではないでしょうか。確かに、この暗い宇宙にポツネンとおかれている己の実存を顧みるなら、不安と恐れ、また様々な「憂い」は当然と言えるのです。
このような「憂い」を持つ私たちの魂をどのようにして、安らかにさせたらいいのでしょうか。あの杞の国の男に対するように「天は気が固まっているので」とでも言うのでしょうか。実は、そのような言葉が必要なのです。現代人の不安の理由は、私たちの実存を安心させる言葉がないからだと思うのです。安心させる真実の言葉が必要なのです。
聖書では、このような言葉が一杯満ちています。聖書は、父親が子供に語るように、神が人間に対して、宇宙の意味を解き明かしている本なのです。たとえば、聖書の創造物語は、神が人間を愛して、人間のために、その生存圏として宇宙を創造したことが記されています。大空も、そして月も太陽も、すべて、神が人間のために備えたもの、植物と果物は人間がそれを楽しんで食べるため、という宇宙と世界の意味が明示されています。そのようにして宇宙についての「憂い」から解放されて、安心と希望を持って、生活することを促すのです。わたしは、聖書の創造の物語をしばしば読みますが、そのたびごとに、次のような神のささやきを聞くような気がするのです。
「さあ、光の中に、広い空間に、海に、大地に、踏み出してごらん。花は咲き、小鳥はさえずり、野の動物たちが戯れているよ。それは神があなたのために備えられた世界、恵みの空間なのだから。この一週、あなたは、そこから豊かな恵みを享受するのだよ。」と。

キリストの復活―宇宙史の新しい章

ナルニヤ物語の作者C.S・ルイスは「奇跡」という本の中で、キリストの復活について次のように語っています。「彼(キリスト)は、最初の人間の死以来閉ざされていた扉を、強引に開け放したのだ。彼は死の王と出会い、これと闘い、そしてこれを打ち破った。彼がそれを成就なさったがゆえに、今や万物は前とは違うものになった。これが新しい創造の始まりであり、宇宙史の新しい章が開かれることになったのである。」

またルイスは、この復活をテーマとして、「ライオンと魔女」でアスランの復活を描いています。アスランはナルニヤ国の王で、キリストを象徴しています。しかし、その世界はアダムの罪ゆえに、白い魔女の力に服し雪に閉ざされています。そしてまた、アスランは白い魔女に殺されます。彼の死は、すべての終わりのように思われましたが、それはアダムの子孫を救うため死でした。そして彼の死ゆえに、悪の力は打破され、アスランは新しい生命に復活します。彼が復活したときに、魔女によって支配されていた世界も一気に生命を吹き返し、春の世界に変化していくのです。ここでもアスランの死と復活により、「宇宙史の新しい章が開かれ」ています。そして復活信仰のみが、世界に光を灯す唯一の希望であることをほのめかしています。

確かに、私たちの世界を支配しているのは、罪と死の原理であり、その背後には悪魔とも言うべき存在があります。すべてが滅びと死の力に屈服し、人の心と行動では罪が力をふるっています。誰がこの滅びの世界から、世界を救うことができるのでしょうか。聖書では、キリストが十字架の死と復活を通して、悪魔の力を打破し、世界を罪と死の力から解放し、「宇宙史の新しい章を開いた」ことを示されています。そして新しい生命は、すでにキリスト信仰者の心の中で希望の光を灯していると。

私たちの教会ではこの1年の間に4人の方々が亡くなりました。これは私たちにとっても辛く悲しいことであり、死の力の酷さを覚えたのです。しかし、私たちには復活信仰があります。つまり、この方々は魂においてはすでに天にあり、終わりの日に新しい体に復活すると信仰です。その復活信仰によって、私たちも慰められ、死の現実の中でも希望を保つことができるのです。

使徒26: 23「キリストは苦しみを受けること、また、死者の中からの復活によって、この民と異邦人とに最初に光を宣べ伝える。」

土器片から

いまから10年ほど前のことですが、冬に帰省して、雪の中、近くの博物館を訪れたことがありました。そこは古代秋田城があったところで、当時の遺物が発掘され、展示されていました。興味深かったことは、昔の渤海(AD9世紀頃、朝鮮北部、沿海地方に存在した国)の使いが、このような辺境の地を訪れていたこと、また貴人をもてなす唐式の門、門の両側の壁は万里の長城を作った技術が用いられていたと言うこと、あるいは水洗のトイレが復元されていたということです。文化のレベルの差を見せつけて、蝦夷(えみし)を平定していこうとした大和朝廷の政策を垣間見るようでした。
館内では、昔の鏃(やじり)や土器がありました。また、土器の破片に何か絵が描かれているものがありました。それを見ていると館員の方が近づいてきて説明してくれました。「私の家は農家で、つい最近まで、このような風習がありました。それはこのような土器片に厄災(やくさい)を書いて、外に捨てるのです。そのようにして、自分の疫病や災いから免れようとしたのです」と。この館員の方は、郷土史に興味があると言うことで、市役所を退職された後、そこで働いているのだということでした。私は、この話を聞いていて、古来より日本人が罪、汚れ、疫害に苛まれていたのだと思い知りました。それらは、どうしても拭い去ることができない悪であり、呪いでした。そこから逃れようとして、古代人は色々な呪術を考えだのでした。
また、私は、この話を聞きながら、私たちが信じているイエス・キリストの十字架を思い起こしました。彼は、私たちのために十字架で死んで捨てられ、私たちの罪を取り除いて、きよめてくれました。私たちは、この十字架についての言葉を信じていますが、事実、その言葉は、私たちの心を聖めるという確信と体験を持つのです。そして、この十字架の言葉の力は、私たちだけではなく、現代のすべての人々の心にも十分に届き、一切の罪を聖めると信じています。この聖めについて、聖書には、色々な約束がありますが、次の聖句もまた、適切に表現していると思います。
「たとい、あなたがたの罪が緋のように赤くても、雪のように白くなる。たとい、紅のように赤くても、羊の毛のようになる。」イザヤ1:18

新年の冒頭に・・

新年明けましておめでとうございます。私たちは、この年に幸いを求めるのですが、私たちの社会が、これからどのような方向に向かっていくことになるか、いささか心配です。高齢化と年金問題、格差問題、多犯罪化の問題、ストレス過多があり、さらに私たちを取り巻く世界でも環境問題、エネルギー問題など、多くの問題が山積しています。私たちは、これらの問題解決の手がかりを、どこに見いだしたらいいのでしょうか。
 そこで、私は、1つの逸話を紹介したいと思います。それは幕末の混乱期に、日本の未来を切り開こうとした1人の青年武士の話です。この青年とは、後に同社大学の創設者となった新島襄です。彼は黒船を見て、彼らの文明に驚かされていました。そこで日本の国を強くするためにはどうしても米国の科学技術を学ぶ必要があると考え、国禁を犯して渡米しようと決心して、函館に来ていました。彼は船の来るのを待つ間に、少しでも外国のありさまを学んでおこうと聖書を手にしたのです。しかし、彼が聖書を開いた時、その第一ページの初めのことばが目に飛び込んでくるように感じました。
 「初めに、神が天と地を創造した。」(創世記1:1)
彼はこの聖書の言葉に驚きました。「これは神社や神だなにまつられている神と全く違っている」「天地をつくり、人間をつくられた神、これこそ本当の神だ。」そして彼は技術ではなく、その神について知るために、米国に行って聖書を学んで帰ってきたのです。
彼の時代から、すでに100年以上がすぎていますが、彼の洞察は、現代日本においても、全く通用すると思うのです。現代もまた、社会と人間の基本デザインを見失っている時代です。そこから色々な問題が表面化しているのです。それぞれが何のデザインもなく、各自の利益と欲望のままに生きていたのでは、ますます混乱を生むだけです。そこで、私たちもまた、かの青年武士のように、聖書の中に、人間と社会のあり方を、探索する必要があると考えるのです。
聖書は、二千年以上の歴史に渡って、あらゆる時代の人々に、将来と希望を与えてきたのです。私たちは、この二一世紀もまた、私たちが解決の糸口を見つけることができる手段は、ただ、聖書にあると信じています。どうぞ、皆さんも、お手元に聖書があるなら、新年の初めに、それを開いてみては如何でしょうか。

ヒルマン監督とインマヌエルの神

2年連続日本ハムをリーグ優勝に導いたトレイ・ヒルマン監督が、「我が信条」という小冊子の中で、ご自分が信じている神こそ真の監督という内容で、次のような文章を書いています。
「野球では、監督として、チームの勝算が最大になるように、毎回試合中にたくさんの重要な決断をしなければなりません。監督にとって、自分のチームの選手たちをよく知っておくことは大切なことです。選手たちの長所、弱点、またそれぞれのポジションで彼らが最高の力を発揮できるように、どう助けたらよいかを知っておかなければなりません。人生においては、全能で力強い、生きている神があらゆる人にとっての監督です。神は私たちが神との関係を持つようにと私たちを造り、私たちのことを何もかも知っています。私たちには弱いところがたくさんあるにもかかわらず、神は私たちを愛しています。・・・」
 ヒルマン監督が、選手たちが困難なときに誠実に対応して、選手たちの信頼を得たというエピソードは多くあります。それらはみな、監督自身が神様から学んだ方法によって選手たちに対応したということを証するものです。私たちの場合も、私たちを心の奥深くまで知ってくださり、私たちが弱いときにも、失敗したときにも、いつも側にいて、私たちを助け、励ましてくれる存在があったら、どれだけ幸いかと思うのです。
クリスマスは、まさに、父の神が私たちのために、「私たちと共にいる神」をプレゼントされたときです。今から二千年前に、地上に誕生したイエス・キリストがその方です。彼の別名はインマヌエルですが、それは「私たちと共にいる神」という意味です。彼は幼子として誕生して飼い葉桶に寝かされました。その誕生の姿は、今も、私たちの貧しく、汚れた心の中にも住んでくださると言うことを証するものです。また地上での三三年の生涯の後に十字架に付けられたのは、今も、私たちのために犠牲となって救ってくださるということを、三日後の復活も私たちに新しい力を与えて励ますことを示すのです。
 どうぞ、クリスマスシーズンにこのキリストに出会うために、いちど教会においでください。

主の十字架は輝けり・・・森祐理さん証から

NHK教育TV「ゆかいなコンサート」歌のお姉さんを努めていた森祐理さんという方がおられます。この方は、小4の時、母親が自宅で経営していた英会話教室にやって来たアメリカ人宣教師に出会い、家族で一緒に教会に通い始め、 高校生の時に洗礼を受けたということです。
しかし、信仰を持っているからといって、人生がすべて順調で、涙などないと言うことはありませんでした。森さんは、今から一三年前にあった阪神大震災で、弟さんを亡くされました。当時、弟さんは神戸大4年生で、卒業後、新聞記者になることが決まっていました。その時の悲しみの深さは、どれほどであったか私たちには想像ができません。しかし、その時に、森さんのお父さんは、弟さんの葬式で1つの歌を歌って欲しいと頼んだということです。森さんは、初め涙でうまく歌えないからと拒んでいましたが、信仰を持って歌うことを決意しました。そして、その賛美は葬儀に集った人々に大きな感動を与えたのです。その時に、森さんが歌ったのは、聖歌397番「とおきくにや」です。
この歌は、 1923年の関東大震災の時に、大阪で英会話教師J.V.マーティンによって作詞作曲されました。彼の言葉が残っています。「東京大震災の9月1日(1923年)の夜、 多くの罹災者が芝白金の明治学院の運動場で夜をむかえました。九死に一生を得た人々に蚊帳とろうそくが支給されました。その夜、たまたま東京にいた私は明治学院に見舞いに来たところ、蚊帳の中で点火されたろうそくの火が丁度、暗闇の中の十字架に見えたのです。私はさっそくペンを取り、この詩を書きあげ、その後大阪に帰ってこの曲をつけました。」
マーティンは、惨事の中、キリストの十字架が、人々の心の中の灯火となり、慰めになればとの願いからこの詩を作ったのでした。この歌詞は次の通りです。
「遠き国や海の果て 何処に住む民も 見よ慰めもて 変わらざる 主の十字架は 輝けり
慰めもて ながために 慰めもて 我がために揺れ動く地に立ちて なお十字架は 輝けり
・・・・・」 
 私たちの時代は、色々なところに揺れを覚えて、不安を持っています。地震という揺れに対する不安、地球の環境問題、食糧問題、エネルギー問題、核戦争などなどです。そして、私たち自身の心の中は、いちど不安を感じたら、その動揺を止めることができないような不安定状態です。このような時代に、何が起こっても揺り動かされることがない真理を持っていると言うことは大切なことです。森さん親子にとって、それはイエス・キリストの十字架だったということですが、それはつまり、十字架に現された神の愛ということです。私たちの教会も屋根の上に十字架を掲げていますが、私はその十字架を見上げるたびに、決して変わることのない神の愛を覚えます。そしてまた、一人でも多くの町の人が、神の愛を心の灯火とし、支えとするように願うのです。

生ましめんかな

先月の6日、あるいは9日の原爆の日に、テレビ番組で特集があり、そこで女優の吉永小百合さんが、いくつかの原爆の詩を読んでいました。そのなかで「生ましめんかな」という詩が特に印象に残っています。
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こわれたビルディングの地下室の夜だった。 / 原子爆弾の負傷者たちは / ローソク1本ない暗い地下室を / うずめて、いっぱいだった。・・・その中から不思議な声が聞こえて来た。/「赤ん坊が生まれる」と言うのだ。・・・ マッチ1本ないくらがりで / どうしたらいいのだろう / 人々は自分の痛みを忘れて気づかった。 / と、「私が産婆です。私が生ませましょう」 / と言ったのは / さっきまでうめいていた重傷者だ。 / かくてくらがりの地獄の底で / 新しい生命は生まれた。 / かくてあかつきを待たず産婆は血まみれのまま死んだ。 ・・・
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 人間は、勝利のために、敵とみなす人々を抹殺する残虐な存在である一方、地獄のような状況下でも、自分の生命をかけてでも、他者を生かそうとする美しい側面を持ちます。この詩における、地下室の被爆者たちの姿がそうです。そして彼らが願ったのは、単に1つの動物としての生命の誕生を願ったのではなく、愛と平和を担う人間の誕生であったと思うのです。その切実かつ美しい希望が光のように暗い地下室を照らしているのです。
 私たちの時代は、当時とは全く異なった時代です。一応の平和が実現して、人を敵とみなして殺害するなど、戦時下のようなことはありません。しかしながら、あの「ビルディングの地下室」の人々のような切実に、新しい生命を生み出そう、未来のために子たちを良き人間として生み出していこうとする熱意は、失われているような気がします。その結果、社会には生気が失われ、生命の価値が小さくなったような気がします。それは牧師である私も反省すべきことで、私の使命も、この町において、人を人として「生ましめんかな」ということであると強く思わされています。

敬老の日に際して

9月には敬老の日がありますが、聖書では次のような老人を尊ぶ言葉があります。「白髪は光栄の冠」とあります。老齢になると白髪が多くなり、身体の衰えを感じるものです。しかし、その白髪は神によって喜ばれ、尊ばれる冠であり、決して衰えた姿も、恥じることはないし、むしろ誇りとし、周囲の者も尊ばなければならないということです。特に、現代のように長寿時代には、従来以上に、余生を自由に積極的に過ごす必要があるかと思います。

聖路加病院の日野原重明氏は、新老人の会などを立ち上げて、現代の老人は、従来のように老け込むのではなく、積極的に趣味や社会貢献をして生きるように勧めています。たとえば、従来ならば老婦人がピアノを習うことなど考える者はなく、本人はもちろん周囲の者も、「おばあちゃん、その年になってピアノはないでしょ!」とたしなめる場合がありました。しかし現代はそうではなく、それを勧めるようにということです。事実、80近くの婦人がピアノを始めることを日野原氏が聞いたときに、手が柔らかいことを誉めて、ピアノを続けるように優しく励ましたと言うことでした。

「われともろとも長生きせよ /最善のことはのちにあるべし /人生のはじめあるは 終わりのためなり」とはベン・エズラという人の詩ですが、日野原氏はこの詩を解説して次のように語ります。「まさに青春は老年のためにある思想であり、渓流が海近くの広い川の流れに移行する様相をうたっている・・・」と。つまり、老年時代は、青春時代から積み重ねてきたものが、もっとも開花する時であり、そのように理解して、私たちは老年時代を過ごすべきと言うことです。そして、老年はそれで終わりではなく、その後には、神が与える永遠の生命の海があるのみです。

愛のマント

最近、日本列島は地震が多発します。専門家によるとすでに、地震の活動期に入っているとのことです。被災者の苦労は、ニュースなどを傍観する私たちには想像を遙かに超えたものがあると推測します。
もう15年ほど前になりますが、北海道奥尻島沖で大地震が発生し、津波が島を襲ったことがありました。島の漁港はそれによって壊滅的な被害に遭い、島民の多くが肉親と家屋を失ったのでした。これはニュースで報道される災害の悲惨さです。しかし、災害は、外面だけではなく、内面を侵害し、心に深い傷を残します。この時に、災害に遭い、家と家族を失った女性との出会いについて、ある牧師から次のような話を聞いたことがあります。
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 講演に行く電車の中である。冬だというに夏の服装で異様なにおいがする女性が何かを吐いて寝ていた。「肩を揺すぶるようにして大丈夫ですか」と声をかけた。彼女は、奥尻島から、放浪の旅をしていた。奥尻島での地震で家族を失い、彼女と共に生き延びたお母さんも自分でいのちを断ってしまった。彼女も記憶喪失になって放浪の旅をしていた。でも郵便の通帳はもって全国を旅行していて、「奥尻島に帰る」ということだ。 それを聞いて、時間があったら奥尻までおくってあげたいような気持ちになったが、講演が待っている。そこでコートを着せてあげた。「私が今あなたにしてあげるものはこれくらいしかない。」その時に、彼女の目からあふれてきた……。 講演を終えて、帰るときは、寒かったが心はポカポカしていた。 そのコートはまさに「愛のマント」となった。そのコートの中にあった名刺を見て、彼女は電話をかけてきた。「私は生きたキリストの愛を見た。あの後、教会に行き、イエス様を救い主を受け入れ、少しずつ希望が与えられてきた。」 
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 私たちの場合も、何か辛いことがあると、神の存在を疑い、絶望的な気持ちになります。しかし、この話は、辛いときにこそ神は私たちの近くにおられ、愛で覆おうと願っておられるということを、示しているような気がするのです。

 「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」ヨハネ3:16

洗礼について

今年の5月27日に私たちの教会において、洗礼式がありました。洗礼には、滴礼、灌水(かんすい)礼、浸礼がありますが、私たちの教会では、原則として浸礼です。浸礼の場合、受洗者は、人々の前でキリスト信仰を告白し、次に、水槽に入り、頭も体を沈めます。身を起こした後、牧師は、受洗者の頭に手を置いて、祝福の祈りをします。そして、受洗後に、みなで会食(愛餐会)をして、受洗者を祝福します。
洗礼の意味について、ローマ人の手紙6:8に次のようにあります。「もし私たちがキリストとともに死んだのであれば、キリストとともに生きることにもなる、と信じます。」
ここにあるように、第1に、洗礼は、私たちがキリストを信じた時に、キリスト共に神秘的に継ぎ合わされたことを象徴する儀式です。現代の私たちが二千年前に地上に来られたキリストに継ぎ合わされるということは不思議なことですが、これは神の奇跡の業と考えてよろしいと思います。第二に、私たちが、キリストと継ぎ合わされたことにより、キリストと共に罪支配されていた古い自分に死んだことを象徴します。キリストが十字架にかかったのは、単に二千年前の出来事ではなく、今の私たちのためと言うことになります。第三に、キリストと共に新しい命に復活したことを現しています。キリストの復活について、世の中には、色々な否定論がありますが、これは私たちの信仰の土台です。この信仰によって、私たちはキリストの復活の命と力を、現代においても、いただくことができるのです。
このように洗礼は、形だけをみると、水に浸かる儀式にすぎませんが、その内容は、神が人間を新しく生まれ変わらせる奇跡であるということができます。もし、みなさんが洗礼の場に立ち会うなら、受洗者の喜びの姿から、この事実を垣間見ることができるのではないかと思います。次の御言葉は、この奇跡的新生を見事に表しています。
「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」Ⅱコリント5:17

生きよ。そして自分の言葉を持て!

1年ほど前のNHK時代劇「慶次郎縁側日記」においてでした。最後のところで、慶次郎が生きる希望を失っている女に対して、「自分の言葉を持て、そして生きろ」と強く語りかける場面が印象に残ったことがあります。原作者の北原亞以子さんの人生観がこの場面に生かされたのだと思います。この場面で、生きることと自分の言葉を持つことと全く関係がないように感じる人があったかもしれません。しかし、人間は、言葉の存在である以上、その人が、どのような言葉を心の中に持つかによって、人生が大きく変わると思うのです。
 このような例は、幾つかあります。聖路加病院の日野原先生の人生の転機についてお話を読んだことがあります。いまから35年ほどまえのよど号事件の時でした。たまたま先生は、その飛行機に乗り合わせていました。そこで、ハイジャック犯の腹痛の治療をし、また表面はひょうひょうとしていたようです。しかし、内心において危機を体験したと言うことです。もしかしたら、このまま死ぬかもしれないという思いが脳裏を過ぎったのです。その時に、2つの言葉が心に浮かんだと言うことでした。1つは「恐れることはない」という主イエスの言葉です。それは福音書の物語の中、湖の嵐に恐れる弟子たちに対して語られたイエスの言葉です。その言葉が、心に浮かぶと同時に、日野原先生の心の動揺も静まっていったと言うことです。もう1つは、「1粒の麦地に落ちて死ななければ一つのままです、しかし、死ねば多くの実をならせる」ということばです。このことばを自分に適応して、この時に、生き残るなら、残りの人生を人のために尽くし、まさしく1粒の麦になろうと決意したと言うことです。その言葉と決意が、先生の後の人生を決定していると言うことでした。
 キリスト教はまさしく言葉の宗教ですが、私たちも、言葉によって生かされているということを実感しています。「人はパンだけで生きるのではなく、神の口からです一つ一つの言葉による」とありますが、現代人にかけているのは、もちろんパンではありません。この心にあって人を生かす言葉ではないかと思うのです。