2009年2月27日金曜日

さあ、光の中に・・・!

杞憂という言葉があります。それは次のような、中国の逸話に基づくものだそうです。
・・・昔、杞の国のある男が、天が崩れ落ちてくるのではないかと心配し、食事ものどを通らず、夜も眠れずにいた。それを心配した友人が、『天は気が固まってできているので、絶対に崩れることはない。』といって安心させようとした。しかし男は、『それなら月や星が落ちてきたらどうなるのだろうか』とまた心配するため、再び友人は『月や星も気が固まっているだけなので、落ちてきても怪我一つしない』と説明し、ようやく杞の国の男を安心させた。 ・・・・・
このことを知って可笑しさを覚える方も多いかと思いますが、現代人は、常に杞憂の中に過ごしているのではないかと思います。大地震、大津波の心配、温暖化と環境問題の心配、戦争の心配、人口問題、食糧危機、エネルギー危機、金融危機の心配、等々です。さらには、通り魔殺人、強盗、様々な事故、癌などの病気の心配、老後の心配、等々と、実際には差し迫った危機がないのに、必要以上に不安と恐れの中で生活しているのではないでしょうか。確かに、この暗い宇宙にポツネンとおかれている己の実存を顧みるなら、不安と恐れ、また様々な「憂い」は当然と言えるのです。
このような「憂い」を持つ私たちの魂をどのようにして、安らかにさせたらいいのでしょうか。あの杞の国の男に対するように「天は気が固まっているので」とでも言うのでしょうか。実は、そのような言葉が必要なのです。現代人の不安の理由は、私たちの実存を安心させる言葉がないからだと思うのです。安心させる真実の言葉が必要なのです。
聖書では、このような言葉が一杯満ちています。聖書は、父親が子供に語るように、神が人間に対して、宇宙の意味を解き明かしている本なのです。たとえば、聖書の創造物語は、神が人間を愛して、人間のために、その生存圏として宇宙を創造したことが記されています。大空も、そして月も太陽も、すべて、神が人間のために備えたもの、植物と果物は人間がそれを楽しんで食べるため、という宇宙と世界の意味が明示されています。そのようにして宇宙についての「憂い」から解放されて、安心と希望を持って、生活することを促すのです。わたしは、聖書の創造の物語をしばしば読みますが、そのたびごとに、次のような神のささやきを聞くような気がするのです。
「さあ、光の中に、広い空間に、海に、大地に、踏み出してごらん。花は咲き、小鳥はさえずり、野の動物たちが戯れているよ。それは神があなたのために備えられた世界、恵みの空間なのだから。この一週、あなたは、そこから豊かな恵みを享受するのだよ。」と。

0 件のコメント:

コメントを投稿