2009年2月27日金曜日

生ましめんかな

先月の6日、あるいは9日の原爆の日に、テレビ番組で特集があり、そこで女優の吉永小百合さんが、いくつかの原爆の詩を読んでいました。そのなかで「生ましめんかな」という詩が特に印象に残っています。
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こわれたビルディングの地下室の夜だった。 / 原子爆弾の負傷者たちは / ローソク1本ない暗い地下室を / うずめて、いっぱいだった。・・・その中から不思議な声が聞こえて来た。/「赤ん坊が生まれる」と言うのだ。・・・ マッチ1本ないくらがりで / どうしたらいいのだろう / 人々は自分の痛みを忘れて気づかった。 / と、「私が産婆です。私が生ませましょう」 / と言ったのは / さっきまでうめいていた重傷者だ。 / かくてくらがりの地獄の底で / 新しい生命は生まれた。 / かくてあかつきを待たず産婆は血まみれのまま死んだ。 ・・・
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 人間は、勝利のために、敵とみなす人々を抹殺する残虐な存在である一方、地獄のような状況下でも、自分の生命をかけてでも、他者を生かそうとする美しい側面を持ちます。この詩における、地下室の被爆者たちの姿がそうです。そして彼らが願ったのは、単に1つの動物としての生命の誕生を願ったのではなく、愛と平和を担う人間の誕生であったと思うのです。その切実かつ美しい希望が光のように暗い地下室を照らしているのです。
 私たちの時代は、当時とは全く異なった時代です。一応の平和が実現して、人を敵とみなして殺害するなど、戦時下のようなことはありません。しかしながら、あの「ビルディングの地下室」の人々のような切実に、新しい生命を生み出そう、未来のために子たちを良き人間として生み出していこうとする熱意は、失われているような気がします。その結果、社会には生気が失われ、生命の価値が小さくなったような気がします。それは牧師である私も反省すべきことで、私の使命も、この町において、人を人として「生ましめんかな」ということであると強く思わされています。

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