2009年2月27日金曜日

黙想の中のイエス

 私は、青年時代にキリスト教に改心してから、ほぼ毎朝、祈りの時を持っています。祈りの時の内容は、聖書の言葉を読んで、黙想し、神を想い、そして自分のためと人々のために祈るというものです。そこに神の子イエスの臨在を感じて、心が満たされ、暖かくなります。それでもう三〇年以上続けており、私にとっては、今なお、楽しい「ひととき」です。
現代の世相を思うときに、多くの人々の心は殺伐としているのだな、と感じます。硫化水素による自殺事件、茨城と秋葉原での無差別殺人事件などです。これらは氷山の一角で背後には、多くの予備軍があると推測できます。また現代人の心の殺伐さを垣間見ることができるような気がします。人が孤独を覚え、絶望感に浸っているとき、そばで支えてくれる存在がなく、むしろ、いよいよ見放され、蹴落とされ、無視されていく状態を感じてしまう無情な社会のようです。その危機感と不安感を、皆が覚えて生きているのです。この世相を覚えるとき、私は、いつも黙想の中で知るイエスを、ひとりでも多くの人々に知ってもらいたいと願います。
「心の貧しい者は幸いです」とは、イエス・キリストの言葉です。私が黙想するときに、いつも、このイエスの言葉響いています。本来ならば「心が貧しい」と言うことは、辛いことで、絶望している状態のことです。ところが、イエスは、その者こそ「幸い」と語りかけ、その魂を優しく、無条件に受け止めてくださいます。私自身は、「心の貧しい者」で、何の取り柄もなく、愚かで、小さく、弱い存在です。しかし、このような者をも、心の中のイエスは、いつでも受け止めてくだり、絶望と不安から救済してくださいます。

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