2009年2月27日金曜日

敬老の日に際して

9月には敬老の日がありますが、聖書では次のような老人を尊ぶ言葉があります。「白髪は光栄の冠」とあります。老齢になると白髪が多くなり、身体の衰えを感じるものです。しかし、その白髪は神によって喜ばれ、尊ばれる冠であり、決して衰えた姿も、恥じることはないし、むしろ誇りとし、周囲の者も尊ばなければならないということです。特に、現代のように長寿時代には、従来以上に、余生を自由に積極的に過ごす必要があるかと思います。

聖路加病院の日野原重明氏は、新老人の会などを立ち上げて、現代の老人は、従来のように老け込むのではなく、積極的に趣味や社会貢献をして生きるように勧めています。たとえば、従来ならば老婦人がピアノを習うことなど考える者はなく、本人はもちろん周囲の者も、「おばあちゃん、その年になってピアノはないでしょ!」とたしなめる場合がありました。しかし現代はそうではなく、それを勧めるようにということです。事実、80近くの婦人がピアノを始めることを日野原氏が聞いたときに、手が柔らかいことを誉めて、ピアノを続けるように優しく励ましたと言うことでした。

「われともろとも長生きせよ /最善のことはのちにあるべし /人生のはじめあるは 終わりのためなり」とはベン・エズラという人の詩ですが、日野原氏はこの詩を解説して次のように語ります。「まさに青春は老年のためにある思想であり、渓流が海近くの広い川の流れに移行する様相をうたっている・・・」と。つまり、老年時代は、青春時代から積み重ねてきたものが、もっとも開花する時であり、そのように理解して、私たちは老年時代を過ごすべきと言うことです。そして、老年はそれで終わりではなく、その後には、神が与える永遠の生命の海があるのみです。

0 件のコメント:

コメントを投稿